2月14日。2日目
チョコナッツケーキなるものを焼く。
これが今日の目的であった。
8時半頃目が覚め、今日は中途覚醒がなかったとホッとして、9時頃ベッドをでた。
寝る時間はいつもと同じだから、起きる時間が8時半だったら、体に負担が少ないのかもしれない。
太陽がでて晴れて暖かくなるのを待っていたけど、雲は広く覆い被さっていたので、諦めて出かける。
公園で木の様子を見て、多摩川まで降りていく。石で洲になっているところをぴょんぴょん跳ねて、中洲までいって、昨日の雨で多くなった川の水量をみて音を聞いてぼんやりする。
風が強くなってきたし、気も済んだのでもときた道を戻り、ドラッグストアで、板チョコとバターとミックスナッツとオートミールと食パンを買って帰る。
昼食を食べてから、重い腰を上げて、ケーキ作りに取り掛かった。
お菓子作りは億劫だ。製作中に、これでいいのか正解がわからない。でもまぁとりあえずオーブンへ放り込めたし、15分くらいしたらチョコのいい匂いが漂ってきた。
夫が帰ってきたら試食だ。
今日は頭痛だった。気圧のせいかもしれない。朝から時々左目の奥に刺すような痛みがあった。昼からは左側に痛みがうつり、良くなる感じがしないのでイブプロフェンを飲んだ。スマホやパソコンを見ないようにしたいのだけどなかなか難しい。
有給消化 1日目 雨
先週の金曜が最終出勤日だったので、土日を挟み、今日から有給休暇の消化が始まった。
ほんとうは休暇は20日以上あったのだが、不本意ながら諸事情で全ては使えなかった。
理由は2つある。
1つはお給料を出してる予算元(雇用主と異なる)が、休暇の使い方を制限するルールを設けているから。(雇用主のルールに乗っ取ると自由に使えるのだが。)
もうひとつは半年以内に同じ雇用元で再雇用されると(その可能性は大いにある)、休暇は引き継ぎになり、再雇用の際には新たに休暇が付与されないので、全部使わないで、その機会のためにとっておくほうが安心だから。
結局14日くらい休暇を使えず。これで他のところでの就職が決まったら、まるまる14日失うことになる。買い上げしてくれる企業があることなど考えると、本当にもったいない。
今日はとにかく雨だった。
眠りの質が悪いので、最近は日が出る前に必ず目が覚める。何時かはわからない。目が覚めても何時なのか知りたくないので時計は見ないようにしている。何時なのかわかってしまうと全然寝れてないことに気づいて落ち込んだり、気にしすぎの不眠になったら嫌だから。今日もそんなわけで一度目が覚めてからしばらく眠れなくてゴロゴロして、いつの間にか二度寝をした。仕事がないので9時くらいまで寝れた。
雨だと家の中が暗い。少しでも明るいところへと思って窓際に行って障子を開けるけど寒い。
一時間くらいして障子は閉めることにした。
しばらく使ってなかったヤマハの小さなスピーカーとBluetoothのトランスミッターを使ってボサノヴァを聴いた。Amazon Musicの適当なプレイリスト。
読んでる本が村上春樹だ。せめてBGMくらい明るいものにと、ボサノヴァ。
12時くらいには本もやめてラジオを聞く。
バレンタインデーにホットケーキミックスで作れるレシピがないかと探す。
雨で出かけられないから、室内でできる運動をする。Youtubeが便利だ.
昼食用にご飯を炊いて、おかずをつくった。
午後はヨガをして、本を読み、夕飯のシチューを仕込んで、ドラマのNUMBERSをみた。
仕事探しはしなかった。
明日は外に出たい。チョコとバターを買ってきてケーキを焼くつもり。
揚げパンとビニール袋
好きだった給食のメニュー。
昭和60年代。
給食のときはお箸を持っていかないといけない日があった。子供だったので詳しくは覚えてないのだけれど、給食のメニューの表に、お箸の日が書いてあり、自分で持っていかないといけなかった。
学年があがると持参しなくても給食時にはお箸が用意されるようになった。給食というと、”メニューに合わせて持っていかないといけないものがある”というのが私の思い出だ。
好きだったメニューのひとつ、きなこ揚げパンの日は、”ビニール袋”を持っていかないといけなかった。揚げパンにきなこと砂糖がまぶしてある、とっても甘くておいしいメニュー。でもそれを手で掴んで食べたら、手がきなこまみれ、砂糖まみれのベチョベチョになってしまう。そしてベチョベチョの手で食器を触り、机を触り、椅子も、教室中の何もかもをベチョベチョにしてしまう・・・・
それを防ごうというので大人たちが思いついたのが、この、ビニール袋持参作戦ではないだろうか。まず、ビニール袋に手を突っ込む。それからビニール袋をはめたまま揚げパンをつかむ、口に運ぶ、頬張る。ああ、幸せ。(揚げパン食べたくなってきたな・・・・)
食べ物を、箸やトングなどの道具ではなく、素手でもなく、ビニール袋で掴むというのはなんとなく違和感があり、大人になった今でも、使い捨てのビニール手袋で食材をつかむときはなんだかやってはいけないことをしているような変な感じがする。でも、揚げパンの時だけはいい。ビニール袋を使うのがいい。このビニール袋の思い出のおかげで今もベタベタにならずにおいしい揚げパンを食べられる。
給食と言えば、揚げパン、とビニール袋である。
まず、コッペパンを縦方向に半分に切り目を入れる(もちろんナイフなんか学校にないから素手で)。切り目にナポリタンを入れる。ついでにプロセスチーズもはさむ。このプロセスチーズは、魚肉ソーセージのミニチュア版といって感じで、人差し指くらいの大きさだったろうか、とにかく細長いので挟むのにもってこいだった。
はい、ナポリタンドックの完成。焼きそばパンのナポリタンバージョンです。
あぁ、おなかすいてきたな。給食、おいしかったな。
Oisix特別お題キャンペーン「好きだった給食メニュー」
『うつ病九段』 先崎 学 その1
うつ病九段
プロ棋士が将棋を失くした一年間
”(将棋が)弱くなりたくない” という思いを支えにうつ病から快復していく棋士、先崎学の話だ。
自分のうつ病との闘いと比べて一番異なる点は、”将棋”が指せるか、させないかで、筆者は快復を実感している点にある。
自分はもしかしたら快復してないのかもしれないが(現にいま、セロトニンを増やすという臨床データのある漢方薬を服薬しているし)、うつ病の前はこれができていて、うつ病になるとできなくなって、でも快復してきた今はまたできるようになった、というものがない。
うつ病になる前にやっていたこと、生活スタイルを、今もやりたいと思わなくなってしまった。
うつ病になるというのは、例えていうならば、自分を動かすための燃料タンクが小さくなることだ、と当時の担当医に言われた。確かにこれは納得のいくことで、病前15リットルだったタンクが病中は3リットルになり、快復した今8リットルになったくらいの感じがある。もうあんなに活動したくなし、あんなに活動するとまた病気になる気がして怖い。
病気になったらまた職場のみんなから腫れ物に触るような扱いを受け、うつの症状で人を信じられない、自分を責める、で気まずくなって退職、という大変辛いプロセスが待っている。もうこりごりだ。
タンクが小さくなるという暗示にかかっているのか、それとも本当にタンクが小さくなったのかわからないが、とにかくまたああなるのが怖い。
この本は回復するまでの過程が描かれているので、その後筆者がどのような生活を送ったかはわからない。でも筆者にはどうしても失いたくない、将棋があったのだ。
プロ棋士が将棋を失くした一年間 とあるように、一年間過ぎた後に、取り戻したのだ、将棋を。
この”筆者にとっての将棋”という存在は誰もが持ちうるものではないと思う。その点では、うつ病の人の快復の参考になる本ではない。
しかし、うつ病患者の心の中は、「そうそう、そうだよね〜」と頷けるようなことが書いてあるし、筆者の兄で精神科医の言葉も非常に役に立つ。
『嫌われる勇気』を読んでいる その1
ブックオフで 『嫌われる勇気』を、買ってきた。
アドラーの教え。
生きるの辛いなぁ、もうやだなぁ、いつまでこの無理ゲー続くんだろう、ってモヤモヤ生きてる人たちのために、
アドラーが教えてくれること、が書いてある。
全部読んでないので、アドラーが何を思ってアドラー心理学なるものを考え出して世に広めたのかわからないけれど、
途中まで読んで私が感じるのは、この心理学は、アドラーからの"励まし"だ。
つらいつらいと嘆く人たちへ、「そうでもないよ、こう考えたら楽になるよ」、という知恵を教えてくれているものではないか。
頭の良い人たちは、どんどんこういう知恵を書き残して欲しいと切に願う。べつに心理学者だけじゃない。仕様やトラブルシューティングも書いてある取扱説明書みたいなものだ。もちろん、読んだだけじゃ解決はしないし、本の中に答えはないんだけれど、取扱説明書とか、字引という基本のものがあってこそ、それらのツールを使って、自分なりに工夫し、少しでも解決に近づくことができると思う。
最近読んで、知恵の宝庫ー!と嬉しくなったのは
こちら
pha 『がんばらない練習』
読んでみて、私が書いてるのか?と思った。
そして、私が全然対処できてない自分のダメなところによる不具合を、うまく処理するやり方が書いてある。
人の声を聞いたり物音を聞くだけで精神に響く。結構きてるな。そんな時は意図的に生活リズムを夜型にするようにしている。そうするとなんだかちょっと気分がマシになる。調子の悪さを生活リズムを崩すことで受け止めてるというか、車が衝突した際にあえて外殻が壊れることで衝撃を吸収して中の人間を守るように、壊れてもいい部分をある程度壊すことによって本当に大事な部分を守るのだ。
この部分の説明がとても秀逸だ。あるある、なんだか知らないけどちょっと体に悪いことをやってみちゃったりすること。その理由をこんな風に説明できるなんてすごい!やはり頭のいい人は説明が上手だ…とか感心するのだ。なのでphaさんには今後も書いてもらいたいんだけど、ブログに書くことがなくなった、とか書いてあったからどうかな。
『嫌われる勇気』は
悩める青年と、哲学者いわゆる哲人の対話形式で書かれていて読みやすいです。
(ちなみに読む前にYouTubeで説明してる動画見ちゃったけどね…)
哲人が、話すために訪ねてきた青年を友人と思っているというところ、とてもいいと思った。
役に立たないと存在しちゃいけないという思い込み
仕事の場で、みんなの役にたってないとわたしは居てはいけないんじゃないかと思ってるようだ。
そりゃそうだよね、お給料もらってるんだもの。
社会人としてそう考えるのは当然よね。でもそれも度がすぎるのは良くないのかなぁと思い始めている。
わたしのお給料はボスの研究費から出ているのであって、今いる研究所からでているわけではないのだ。だから、究極、ボスがいいと思っているなら、職場みんなの役に立たなくてもいいはず。
今の職場にいるのが長いせいか、ものがどこにあるかとか、あれは使ってる人いるのかとか、捨ててもいいんじゃないのか、とか、なんの権限もない私に聞いてくる人が多い(もちろんボスじゃない)のだけれど、それが結構ストレスだ。
物の場所とか、使い方とかの簡単な質問だったらいいんだけど、捨ててもいいんじゃないか、なんていうお金とか財産の絡むことをわたしに言ってくるのは間違っていると思うのだ。ついでに言うと昨日わたしにこれを言ってきた男性は、言い方がキツくて、とてもびっくりして、怖かった。言い方が遠回しだし。他の人も、この男性の言い方に関しては、もうちょっと言い方あるだろ…、ものを頼むときにあの態度はないよ、という反応なので、わたしだけが敏感になってるわけではないであろう。
困ってるなら助けてあげよう、と思ってわたしも応えるのだけど、もう自分がこういう怖い言い方されて耐えられないなら、この親切心は、出さないようにしよう。
そもそも、本当に親切心なのか。
親切にすることによって、役に立ってる、仕事してる、満足感を得たいためにやってるんじゃないのか。
与えられた仕事以外にも、役に立つことをしてないとわたしには存在価値がないんじゃないかと思ってるんじゃないのか。しかも与えられた仕事が結構暇だから余計に。
暇なのは、自分が仕事の段取りをちゃんとしているから時間が空くのだし、部下ひとりひとりの空き時間を把握して仕事を割り振るのが難しいのは上司の責任だ。
自分の存在価値を確かめるために、余計なところでストレスを感じ、与えられた業務をこなせないのでは本末転倒ではないか。
もうやめよう。
たぶん、役に立ちたい、と思ってるのが外に出ちゃってて、話しかけやすい雰囲気を作っているのだ。その隙を嗅ぎつけて、敵はやってくるのだ。
役に立ちたいと思うのやめよう。禁止!
役に立ちたいなんて思うな!力になりたいなんて思うな!
与えられた仕事をするだけで、わたしは職場で存在価値があるし、もっといえばたとえ暇でやることがなくっても、必要枠だから雇われているのだ。存在する理由があるのだ。
だからもう、これ以上何もしなくていい。役に立たなくていい。
仕事をしてなくたって、わたしも、あなたも、素晴らしい存在で、生きている価値があるのだ。
最近は、
"わたしは素晴らしい存在だから"
と、自分に向かって心の中で言い続けている。
私は素晴らしい存在だから、あの人が気持ちをわかってくれなくったって大丈夫。
私は素晴らしい存在だから、失敗したって大丈夫。
私は素晴らしい存在だから、あの人が挨拶を返してくれなくったって気にならない。
私は素晴らしい存在です。
と、とにかく言い続けている。
自己肯定感を得るために言い続ける!
#自己肯定感
ちょっと寝るのが、すごい
昨日は仕事後、なんだかモヤモヤしていた。
モヤモヤがうたた寝で吹っ飛んだ。
まだ仕事してるのに、お疲れ様って声かけられなかったな、とか、なんで私って仕事に興味ないんだろう、とか、ボスに褒められもしないし、価値ないよな、とか。
昨日は、すごく忙しくたくさん仕事をこなしたのに、充実感よりも、モヤモヤが勝ってしまっていた。夫が帰ってきて、夕食後も、浮かない気分。
モヤモヤの解消法をネットで調べるか、と思ってスマホを見てたけれど、ネットサーフィンが自分を疲れさせるんだよな、やめようと思って、ベッドに寝っ転がってぼんやりすることにした。
モヤモヤしている時、ボーッとしようとしてもモヤモヤを余計考えてしまうから、ネットサーフィンとかで気を紛らわしたりしがちだったけれど、スマホの見過ぎ、情報に触れすぎも良くないと思い、ぼーっとすることにした。
ベッドに転がったら、私にしては珍しくうたた寝をしてしまった。いつも過度に緊張しているせいか、実家を出て自活するようになってから、寝落ちすることはほとんどない。学生の時なんて宿題しながらガンガン寝てたのに。今は休みの日とか昼寝はするけど、平日、ベッドでちゃんと寝る前にその辺で寝ちゃう、ってことが全然ない。
うたた寝、多分30分くらいしちゃったんだと思うのだけど、起きたら、いや起きるのも辛かった、眠っていたかったけど、風呂が沸いてしまったので…
無理矢理起きてお風呂入って目が覚めてきたら、ものすごくスッキリしてた!
モヤモヤ、なし!褒められたい気持ち、なし!自己嫌悪感、なし!
ちょっと寝ただけなのに、すごい精神の回復!
とても濃い、いい眠りだったのだろう。モヤモヤ考えていたことは頭から出て行ったようで、夫の言った変なことに大笑いしたりするほど超ご機嫌になった。
何が起こったんだ私の脳よ。
あのモヤモヤはなんだったんだ?あんなに、仕事後から9時半くらいまで私を悩ませていたモヤモヤ。どこへ行ったんだ?
疲れた私の脳が作った幻想だったのか?
誰か脳の研究する人、この頭がクリーニングされる感じを、研究して、仕組みを説明してください!
いやわたしもその研究したいわ…
もしかして、モヤモヤと考えがちな人間関係のもろもろとか、全部自分の脳が勝手に作ってるだけなんじゃないの?そうだとしたらすごい迷惑だな。自分で自分を苦しめるような思考になるわけだから。
疲れすぎると、自分で自分を痛めつけるのか…
つまり、疲れすぎてはいけないということか…